雑記(1):防災研究者の職能とは,2009.10.23.

     先日,鳩山由紀夫議員が第93代内閣総理大臣に指名された.自民党以外が過半数かつ第1党となった政権は,55年体制以降初めてだという.そしてあまり知られていないことだが,鳩山首相は戦後初の本格的な理系首相であり,Operations Research(以下OR)と呼ばれる分野を専門とする学者であったという.彼に求められている取り組みは戦術ではなく戦略レベルのものかもしれないが,行政施策における政治的意思決定と科学的意思決定の橋渡しの象徴として,個人的に活躍を大いに期待している.
     ORは日本語では「問題解決学」などとも訳されるが,おおよそ「限られた資源配分を求めるという条件のもとで,意思決定システムを設計,運用する数理的アプローチ」と言ってよいだろう.科学的かつ定量的,そして何より学際的であるという特徴を持ち,その起源を軍事研究に遡る事ができることもあり,防災研究ともきわめて親和性が高い.この視点で防災を論じた研究は過去にも幾多の蓄積がある.これらの多くは理論的な数理モデルを用いて社会のあらゆる状態の定理・法則を解明し,防災計画などに一通りの客観的根拠を与えるものであった.それゆえ現場との距離はやや離れていたが,過去の被災経験と技術者・プランナーの英知に頼っていた計画技術に理論的な基盤を与えたという点は高く評価してよい.
     ところで近年の著しい情報処理技術の発達と積極的な電子データの整備は,学術研究全般においても大きな影響を与え続けている.例えばこれらに基づくGISやシミュレーション技術の普及は社会の記述的な変化を容易に,正確に,そして詳細に分析することを可能にするものであり,操作環境さえ整えれば誰でも利用できる利便性の高いものである.またこれらは統計学や地理学,情報学との親和性もきわめて高く,その技術に対する需要は指数的に大きくなっている.防災研究においてもそれは例外ではない.都市の火災安全性能を把握するためには延焼シミュレーションを用いればよいし,市街地の危険性を知りたい場合はGISによって建物密度や道路幅員などの概要が具体的に図示される.しかし,このような多量のデータに依拠して社会の様々な機能を評価する科学研究プロセスは,こと防災を扱う限りいくつかの実用上の注意点も同時に有する.字数も限られているので,ここでは先に言及したORに関連するものに限定して思いつくままにあげてみる.1つに入出力データの解釈がある.言うまでもないことだが,災害現象は本質的に強い不確実性を伴う.それゆえ,いくら多量なデータが社会の状態を精緻に記述していようとも,出力される結果から政策的含意を導き出すことは簡単ではない.特に,分析のもととなるデータや計算条件などが出力に大きな影響を及ぼす被害想定や延焼シミュレーションなどは,その仮定や前提に政策的な方針が隠れていることも多く,これによって得られた「事実」はともすれば資料の独り歩きの原因ともなりうる.またややテクニカルな点であるが,データの充実に伴って発生する数々の問題も忘れてはならない.特にBellmanがCurse of dimensionality(次元の呪い)と呼んだものが有名であるが,この問題を抜本的に解決するためには高次元のデータを低次元に縮約し,政策的意義の大きい変数を選択する技術が必要とされる.近年の社会全体を取り巻く著しい状況の変化も注意せねばならない.特に,生活パターン・行動パターンの多様化はその最たる例である.例えば我々が防災研究の先にみる「理想的な社会」に関する基準や尺度は,前のコラムでも言及された平和・幸福という計量の困難なものである場合が多い.近年,その尺度はこれまでの画一的なものから多種多様なものに移り変わりつつあることが知られており,情報化時代の到来と電子データの加速度的な充実はそのニーズをより複雑にしている.この状況下で多くの葛藤に耐えうる「理想的」な社会像を提案し,ソフト的・ハード的側面からその実装を計画するためには,旧来型のトップダウン・資源配分型市場コントロールのみならず,ボトムアップの意思決定という新しい処方箋を用意し,それらを機動的に管理する必要があるだろう.したがってこれからの防災研究は,社会を構成し,それを評価する意思決定者のニーズをより適切に把握し,理論的な根拠のもとでその規範解を示す方法論が必要とされると個人的には考えている.
     膨大なデータを背景とした精緻な被害想定手法や防災GISは,きわめて現実的かつ利便性の高いものである.しかしその反面,多種多様なデータの充実によりその技術全体は1つの完成されたシステムとして製品化され,一般性や柔軟性は多くの場合著しく失われ,それゆえ事前に定義された因果を超える機能は期待されない.物理的な延焼性状なり個人の行動原理なり,ともすればブラックボックス化されがちなこの因果関係は,結果の妥当性や運用においては極力柔軟に解釈される必要があり,必要に応じて常に適切なものが提案されるべきである.そしてこの技術は,データインテンシブなサイエンスへの転換という潮流のなかで,より重要となっていくに違いない.
     一般に防災研究者は,被害想定やシミュレーションで得られる出力結果を所与の条件として一般社会を論じることが多く,ともすればその特殊性に慣れてしまいがちである.しかし,われわれは大量な基礎データの入手や得られた特殊解の利用のみをそのエートスとすべきではない.それよりも,膨大なデータや精緻な評価システムを規定するロジックを相互補完的に洗練させ,それらを適切に説明しうる確固たる専門性を確立することが,われわれ防災研究者が社会から要請されている役割ではないだろうか.そして,その理解・前提の相互共有はわれわれが目指すべき「マルチディシプリン」の基礎を形作り,それこそが地震学・社会学・建築・土木・ORなどの各専門分野では見つけることのできない,防災研究者固有の職能となっていくのに違いないと考える.
    (2009.10.23)

    [追記]2009年10月23日に若手防災研究者の会・コラムに掲載したものです.この頃はこんなことを考えていたようです.
    (2013.05.16)

 

 

 

 

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